ボログ

若手俳優を追いかけて暮らしている

続・降りる降りる詐欺

好きだった。というか、今でも好きだ。

お腹を下し続けて2キロ痩せたし、眠れなかったし、寝たとしても悪夢ばっかり見たし、肌荒れもひどかった。
「絶対絶対、もう推しのことなんて見ない。他メンの色振る」
と思っていたのに、結局推しの担当カラー振ってて、
「絶対絶対、もう推しに貢がない。手紙も書かない」
って思っていたのに、似合いそうだなと買ってしまったものをプレボに入れていた。
姿を見れば、声を聞けば、やはり「好きだな」と思ってしまった。
それまでの怒りやら悲しみ、妬み嫉み恨みが、バケツの水でザブンと流されていくみたいに、自分の中にあったわだかまりを雑に洗い流して、奥底にしまっていた好意をまた、引きずり出される。
その一連の流れを数回経験した。私はハイパーネガティブクソ野郎なので、一度だけでも死にそうになっていた。数回されたのだから、もう死んでる。気付いたら死んでた。生きる屍。ゾンビ。


多分、推しは何も考えていない。
私がこんなに病んで、泣いて、それでも現場に通っていることを知らないし、知る気もないし、知りたくもないだろう。そして知るべきことでもない。一オタクの機嫌の良し悪しなど気にしなくてよい。
だけど、オタクや偉い人の機嫌をとっておいた方がいいときもあると思う。
「推しくんは気が利かないだけなんだよ」
と、友達に慰められ、笑ってしまったし納得した。気、利かないよな。もっとおべっか使って、ゴマ擦って、上っ面だけでも媚びへつらえば生きやすいだろうに。営業が出来ないタイプだ。
でもそういうところも「いいな」と思っていた。不器用で、真面目で、気が利かない推しが好きだ。あー馬鹿馬鹿しい。


うんざりだ。
自分の買い物より推しに似合いそうなものをいつも探していて、推しに会いたいからがむしゃらに仕事して稼いで、推しに嫌われたくないから身なりにも気遣って(当社比)…この1年の「私」という存在や行動理由には、常に「推し」という要因が付随していた。
SNSを見るたび「この服同担から貰ったのかな」とヤキモキして「あ、この前あげたやつ。使ってくれたんだ」と有頂天になって、同担のリプに気が狂いそうになって、感性の合わない舞台に通って、推し名義でチケ買って花出して個ブロ積んで……
そういうの全て、もううんざりだ。でも全部、私の自己満足でやっていたことだし、今更放棄できない。私は何を支えに毎日生きていけばいいのか。


入りが2.5舞台だった私が偉そうな口を叩ける立場じゃないが、2.5以外の現場にも全部通った。推しの演技や人間性を見たかった。できるだけ長い間、推しが板の上に立っていられるよう願って応援していた。
それでも「私」はだめらしい。
2.5しか行かないで、キャラクターと推し自身を重ね合わせて叫ぶオタクの方を選んだ。誰でもいいからファンサしてもらいたいような人間たちを選んだ。理由はわからないけど、私は、だめだった。
視線が交錯しない位置で推しを眺めている方が安心した。ホッとするようになっていた。


つらつらとそれっぽい理由を並べてみたけど、結局私は推しに感謝されたかったし、優遇されたかったのだと思う。醜いオタクだ。まぁ、考えるくらいはいいだろ。本人には伝えないままだ。今後伝えるつもりもない。
「いつもありがとう」って、一言貰えたら救われたのに。「好き」って言ったら「俺も」って返すくらいの営業してほしかった。私と同じくらい好きでいてほしかったし、大切にされたかったな。


多分降りないんだろうけど(降りないんかい)区切りはついた感じがした。もう涙も出なかった。会場を出て、駅まで歩いてる間「かっこよかった」って友達に話せた。いつもの愚痴は出てこなかった。「今なら大丈夫だな」と思った。何が大丈夫なのか自分でもよくわからないが。
降りないけど、血眼で応援することはもうない気がする。全通もしないし、手紙もプレゼントも毎回渡さない。リアコをやめられるかはわからない。だってまだこんなにも好きだし。
でもまぁ、1年間走ってきた「私」の終焉はここだと思う。ポエミーなブログを書いてしまったが、追悼のようなものなので許してほしい。


じゃあ、さようなら「私」。